「女性が性を語ること」はどう扱われてきたか
語りにくさは性格の問題ではなく、扱われ方の歴史に理由があります。メディアでの描かれ方の変化とあわせて整理しました。
語りにくさは、その人の性格の問題ではない
自分のからだのことや性のことを、誰にも言えないまま何年も抱えている。そういう人はめずらしくありません。友人にも、パートナーにも、医師にさえ切り出せないという声はよく聞かれます。
これを「自分が真面目すぎるから」「恥ずかしがりだから」と説明してしまう人が多いのですが、話はもう少し大きいところにあります。日本語の会話のなかで、女性の側が性について話す場所そのものが、長いあいだあまり用意されてこなかったからです。
「語る側」に置かれてきたのは誰だったか
性に関する話題は、長く男性同士の会話のなかで流通してきたと言われます。冗談として、武勇伝として、あるいは業界の情報として。そこでは女性はしばしば語られる対象の側に置かれ、語る主体としては想定されていませんでした。
一方で女性が同じように話すと、「はしたない」「そういう人だ」と人格の評価に結びつけられやすい。同じ話題でも、誰が口にするかで受け取られ方が変わる。この非対称が、語りにくさの土台になってきたという見方があります。
自分のためにお金を使うことも、同じ構図にある
性の話と地続きなのが、お金の使い方です。家族のため、子どものため、仕事のためなら出せるのに、自分の快さのためとなると急に手が止まる。この感覚を持つ人はとても多いのですが、これも個人の気質だけでは説明しきれません。
ケアの役割を担う人ほど、自分の分を後回しにすることが「よい振る舞い」として評価されてきました。評価される行動を長く続ければ、それは価値観として内側に入ります。罪悪感は、そうやって身についた反射に近いものだと考えると扱いやすくなります。
メディアでの扱われ方は、確かに変わってきた
ここ十数年で、雑誌やテレビ、ウェブメディアでの扱い方は目に見えて変化しました。かつては笑いの素材か、あるいは注意喚起の対象として登場することが多かった話題が、健康や生活の一部として扱われるようになってきています。
大まかな傾向を並べると、次のような変化として整理できます。
| 観点 | かつて多かった扱い | 近年増えている扱い |
|---|---|---|
| 語り手 | 第三者が説明する | 当事者が自分の言葉で話す |
| 文脈 | 笑い・ゴシップ・注意喚起 | 健康・生活・人間関係の一部 |
| 前提 | 語ること自体が特別 | 誰にでもある日常の話題 |
| 扱う範囲 | 行為そのもの | からだ・心・関係全体 |
| 結論の出し方 | 良し悪しを断じる | 選択肢を並べて委ねる |
変化を押し上げたもの
この変化は誰かが号令をかけて起きたものではありません。いくつかの流れが重なった結果だと考えられます。
- 個人が自分で発信できるようになり、編集を通さない声が可視化された
- 健康分野の情報が一般向けに整理され、からだの話を医療の言葉で話せるようになった
- 働く年数が長くなり、自分の心身を管理することが実務的な必要になった
- 海外の議論が翻訳され、比較の視点が持ち込まれた
- 広告や小売の側が、女性を「買う人」として正面から想定するようになった
それでも残っているもの
扱いが変わったからといって、語りにくさが消えたわけではありません。むしろ「開かれた話題」として消費されることで、別のやりにくさが生まれている面もあります。明るく前向きに語れる人だけが可視化され、そうでない人が置いていかれる、という形です。
また、公の場では扱えても、身近な人間関係のなかでは依然として切り出しにくい。職場や家庭という具体的な関係のなかでは、変化はもっとゆっくり進みます。
語らなくても、知ることはできる
誰かに打ち明けることと、自分のために情報を集めることは別の行為です。前者ができなくても、後者は今日からできます。信頼できる医療機関や公的機関の情報にあたる、専門家の書いたものを読む、その程度から始めて構いません。
話す相手も、全員である必要はありません。ひとりでいい。医師でも、カウンセラーでも、匿名の相談窓口でもかまいません。語る相手を選べることは、恥ではなく管理です。
自分の順番を後ろに置きすぎない
自分のからだのこと、自分の時間の使い方、自分のためのお金。これらを考えることは、誰かをないがしろにすることとは別の話です。整備しないまま走り続けられる人は、そう多くありません。
扱われ方が変わってきたということは、いま迷っている人が参照できる材料が、以前より確実に増えているということでもあります。まずは知るところから始めてよいはずです。