ボディポジティブからボディニュートラルへ|体との距離の取り直し方
「自分の体を好きになろう」という呼びかけに、かえって疲れてしまうことがあります。言葉が広がった背景と、そこから出てきた別の考え方を整理しました。
「体を好きになろう」に疲れることがある
ありのままの自分を愛そう、という呼びかけを目にする機会が増えました。励まされる人がいる一方で、その言葉の前で立ち止まってしまう人もいます。好きになれない自分は、まだ足りていないのだろうか、と。
否定するのをやめようという話だったはずが、いつのまにか「肯定できているかどうか」の新しい評価軸になってしまう。そこに疲れを感じるのは、心が狭いからではありません。
この言葉が広がった背景
自分の体を肯定してよいという主張は、もともと、特定の体型だけが望ましいものとして扱われてきた状況への異議申し立てとして広がったと言われています。誰かの体を勝手に採点する構造そのものを問い直す言葉でした。
ところが広く使われるうちに、意味が少しずつ変わっていきます。個人が前向きでいられるかどうかの話に縮んでいき、商品やキャンペーンの見出しとしても使われるようになりました。
肯定でも否定でもない置き方
そこから出てきたのが、体を評価の対象から一度外してしまう、という考え方です。好きになる努力も、嫌う気持ちの否認も、どちらも体について考え続けている点では同じだ、という見方に立ちます。
| 立っている前提 | 向いていそうな場面 | |
|---|---|---|
| 否定的な見方 | 理想の形があり、自分はそこから離れている | ― |
| 肯定する見方 | 自分の体を好ましいものとして捉え直す | 励ましがまだ届くとき |
| 中立に置く見方 | 好き嫌いの判断を、いったん保留する | 肯定しようとすると苦しくなるとき |
見た目の言葉が、日常に多すぎる
痩せた、太った、若く見える。あいさつ代わりに交わされるこうした言葉は、悪意なく使われていることがほとんどです。ただ、褒め言葉の形をしていても、体を評価する場面をひとつ増やしていることに変わりはありません。
評価される機会が多いほど、自分でも点数をつける癖がつきます。鏡の前で確認する回数、写真を見返すときの視線。習慣として身についたものは、意識しないと気づけません。
- 会話の入り口を、外見以外の話題にしてみる
- 褒めるときも、選んだものや行動のほうに触れる
- 自分について言うときの言い方にも、同じ基準を当てる
「機能」で見てみるという方法
見た目から視点をずらす方法のひとつが、体を何ができるかで捉え直すことです。歩けた、眠れた、食べられた、誰かを抱きしめられた。評価ではなく事実として、その日の体が果たしたことを見ます。
地味な方法ですが、比較が入り込みにくいという利点があります。他人の体と並べようがないので、点数の付けようがありません。
- 今日、体がしてくれたことを一つだけ思い出す
- 痛みや疲れも、状態を知らせる働きとして数える
- できなかったことは、そのまま置いておく(埋め合わせを考えない)
他人の体について語らない、という選択
自分の体との距離を取り直そうとするとき、意外と効くのが、他人の体について評価を口にしないことです。誰かを褒める形であっても、体は採点されるものだという前提を、その場に置き直してしまいます。
身近な会話の作法が変われば、自分に返ってくる言葉も少しずつ変わります。個人の心がけで社会は変わらないとしても、自分の周囲数メートルの空気は、確実に自分の作り方に影響されます。
変化は、外側からもゆっくり来ている
広告や商品の見せ方にも、少しずつ変化が見えます。加工の度合いを抑える、多様な体型を並べる、体型そのものを訴求点にしない。以前より選択肢が増えたと感じる人もいるでしょう。
同時に、新しい理想像が置き換わっただけに見える場面もあります。表現が変わったからといって、比べる仕組みが消えるわけではない。その両方を見ておくくらいが、ちょうどよさそうです。
好きにならなくても、雑に扱わない
自分の体を好きになるのが難しくても、休ませる、痛みを放置しない、無理をさせすぎない。それは十分に成立します。感情の問題と、扱い方の問題は切り離しておけます。
肯定できる日もあれば、鏡を見たくない日もある。その振れ幅ごと持っていられることのほうが、いつも好きでいようとすることより、たぶん長く続きます。